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個人的には週末の木曜日。明日から三連休。(11/02)  

今日も行ってくるよー🐾
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愛犬🐶
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帰ったらご飯食べて遊ぼうね🐶
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明日は終日駒沢陸上競技場なので、ジムは今週は今日まで。やろう。
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木曜日の、ワークアウト💪
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きょうは肩の日。
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自分的には少し追い込む。
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筋肉💪もっと欲しい。
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そのためにはやるしかないのだ。
体重は戻っている。
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筋肉量も少しづつ回復か。
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体脂肪率は季節柄高め。対策はあるか模索。
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腹筋観察💪このところ変化がまるでない⤵
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炭水化物補給🍙きょうもしっかり🍙ご馳走様でした。
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きょうは気温が上がりそうだ。久しぶりに賑やかな場所を通って事務所へ。
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出勤前の、お勤め⛩。
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昨日に感謝してきょうを祈る⛩
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どうぞお護りくださいませ⛩
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トレーニーのランチ。
きょうも普遍、不変のメニュー。ご馳走様でした。
午後は締め作業諸々。

【不定期連載・元局アナの半生・35】
(退社前後・・・)
妻と上京することは決まった。会社に辞表を提出したのは辞める半年前くらいだったか。民間放送厚生年金基金の加入証を見ると、資格喪失年月日が平成14年(2002年)4月1日とあるので、退社表明はミレニアム明けの浮かれた雰囲気がまだ残る2001年の10月頃ではなかったか。
当時、編成にいた私は高橋局次長に会議室で辞表を出した。高橋氏は「少し待っててください」と当時の川口社長(日テレ出身)に報告に行ったらしい。通常、やめようとする人間には「遺留」するのが普通だが、高橋氏はこう言った「社長にも話してきましたが、君がそこまで考えての気持ちだろうから、吉村君の退社を会社は慰留しません」正直驚いた。もっとも慰留されても辞めることは揺るがないが、ポーズでもいいから「そういわず考え直してもらえないか」と言ってもよさそうなものだ。おそらく川口社長は私のことをよく思っておらず所払いしたかったが、本人が辞めると言わないと迂闊に解雇できないのでこれ幸いと退社を承諾したのだろう。
自局の社長はころころ変わってきた。初代は「リンガーハット」の米濱さん、その後読売新聞から片柳さん(故人)、そして日本テレビの川口氏、その後は読売テレビの何某か(すでに常務として在籍していた)。新聞→東京キー局→大阪準キー局、の順に社長が交代しているのが分かる。
私が制作部で番組を作っていたころ、川口氏が私にこう言ったことがある。「吉村は番組にカネをかけすぎるからもっとコスト感覚を学んでもらわないと」日本テレビで箱根駅伝をセールスしていた人間の言うことか。いい番組を制作するには当然コストがかかる。テレビがつまらないのはかけるべきところにカネをかけていないからだと私は今でも思っている。この後のほかの人事もおかしなものだったことを記憶している。真偽は定かでないが、支社でイベントの売上金をちょろまかした職員がその後報道部長になったという話を聞いたことがある。誤解を恐れずに言えば警察で泥棒が部長職になるようなものか。
話がそれたが、会社には退社の意思を伝えた。社員に広まるのは時間の問題だ。
家を何とかせねば。この際思い切って購入することにして、東京から住宅情報誌を取り寄せ何度も東京に通った。前述の川広鮨の川上さんにも相談した。川上さんは「山手線の内側にしなさい。山手線の上側より下側。秋葉原は安いけど電磁波の関係であまり良くない。」といろいろアドバイスをくれた。物件が決まって公庫へ申し込み。融資は何とかフルローンで通って、無事に購入でき2月ごろ完成、3月の上京に間に合った。
さて、退社日は3月31日だが、出社は年内まで。新年あけてから3月いっぱいは、それまで溜まっていた有休代休をフルに消化させてもらって上京準備に充てた。仕事を少しでもしようと、佐世保のジャパネットたかたに営業したこともある。今もそうだがジャパネットはテレビはもちろん、ラジオでは全国の民放局を相手に「ラジオショッピング」を行っていた。佐世保の本社にはラジオ用のブースが何台も設置されていた。
話を聞いてくれた部長と名の付くおばさまは「でも。4月には東京に行かれるんでしょう」と怪訝そうにいい、それ以上話は進展しなかった。今考えれば虫のいい話だ。上京までの3か月、ラジオショッピングのキャスターとして働いてやるけど、オタク、私が必要?と言っているようなものだ。いやいや、若気の至りだ。自分は腐っても局の社員という意識がそうさせたのだろう。実際に田舎の放送局の社員は肩で風切っているのが多い。若い私もその一人だったという話だ。
さて、まずは私と妻が結婚するという話が社内を駆け巡り、ランチの時間に社員有志が会場を手配して食事会を開いてくれた。人がアナウンサーを下ろされた時には何もアクションを起こさなかった人たちが「おめでとう」と。正直、そんなことしなくていいのにと思うことしきりだったのを覚えている。そして今度は「吉村が辞めるらしい」という話が社内を駆け巡った。いろんな奴らが話しかけてきた。「退職金いくらもらうとや?」知るかそんなもん。会社が計算するだろう。「ねぇ、東京行くんでしょ?」そんなの人の勝手だろう。こういうのが苦手だった。
吉村はどこに行くのか。。。そこが問題だった。私は関係者に文書を作った。文書の内容はおおよそ次の通り。「この度私は退社することになりました。吉村がどこに行くのかということですが、私に怪文書を送った人間が社内にいることも否定できないためお伝えいたしません。私宛の文書、手紙、連絡は・・・」と、私は実家の住所を書いてすべてそこに送ってくれと要請した。(結局誰からも何も届かなかったが)警戒感満載の文書を当時局に出入りしていた松本印刷の社長に頼んで印刷してもらった。
年末が近まると部内で送別会を開いてくれた。詳しいことは覚えていないが、ネーム入りのボールペン(高いやつだと思う)を貰った。忘れられないのは高橋局次長の「あなたは最高の部下でした」という言葉、その一言だった。高橋局次長も転職組で、海運関係の仕事で「第一級陸上無線技術士(放送局に一定人数必要な技術者のこと)」を所持していたから入社と思われる。(ちなみに私は「第一級陸上特殊無線技士」を持っている。放送局の衛星中継車やタクシー無線の運用などが行えるが全く役に立っていない)その高橋さんは読売テレビから来た永元という技術局長とそりが合わず、いつでも「反撃」できるように、技術部とのやり取りは全てワープロで文書化していた。その文書は見事なものだった。私も高橋さんを見習ってややこしいやり取りは全て文書化していた。出社も早く、制作時代私が7時半くらいに会社に来るとすぐそのあとくらいに来て挨拶をしたものだ。私の仕事や動きをずっと見てくれていたのだと思う。それで「君は最高の部下でした」という言葉になったのだと勝手に思っている。高橋さんははなむけに「宮本武蔵」しかも高橋さんのおそらく読みかけの私物をくれた。それが意味するものが何か私は今でもわからないが、ありがたく受け取った。あと、当時営業から制作に異動した南里さんが「飲みに行こう」と誘ってくれて、さしで色々話すことが出来た。営業時代は横柄で制作に無理ばかり言う人という印象が強かったが、仲間想いの人であることをこの時知った。南里さんはその後身体を壊したという話を風の便りで聞いた。最終出社の日が近づいていた。
(ゆるーく続きます)

帰ろうと思っていたら、昨日データアップした案件で「クライアント都合の原稿修正」が入ったのですぐ対応。
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再びデータアップを終えて、上がります。お疲れ様でした。

個人的には週末なので、帰宅途中に調達したビール🍺で一人乾杯🍻
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明日は長男の競技会で終日駒沢だ。
早朝、愛犬🐶とジョギング🏃‍♂しよう✨
三連休、いつものように。
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